以前、ある人が唐突にこう言った。
「このごろ、いらいらしたりとか考えが煮詰まった時とかに、よく座禅をして心を落ち着けているんだよ。」
断わっておくが、その人も私も、とくに禅宗とか仏教全般に詳しいというわけでは全くない。
ただ、その人はときどき、自分の解釈で唐突に面白いことを考えたり実行したりするのが好きな人だっただけだ。
しかも、どんなことでもそれなりに持論がくっついているのが面白い。私もつい、いろいろと突っ込んでしまう。
「へぇ、座禅って、どんな風に?」
私が尋くと、
「まず、部屋を暗くしてな。」
「暗くってのは、何かわけありで?」
「余計なものが目に入ると雑念がわきやすいと思ってな…。」
その人も本好きなので、部屋にもいろいろと誘惑に駆られやすい対象が転がっているのだろう。
「で、あぐらをかいて……」
「あれ、正式な座禅ってあぐらで良かったでしたっけ?」
「誰も正式な作法に則るとはいってないだろ?」
「……そうでした。」
正式な作法に則らない座禅が、いわゆる『座禅(坐禅)』と言えるのかどうかは、この際関係ないことなのだ。行為が座禅と呼ばれるものに近いので、便宜上呼んでいるに過ぎない。
「そういや、なんで、あぐらで座るのが楽っていうんですかね。俺は足が痺れるまでは正座の方が楽なんですが」
「床とかの上に座るときってのは、あぐらになってちょっと前に身体を傾けるくらいが、身体の重心を支えるのにいい感じになるからじゃないか……って、今はあぐらじゃなく、坐禅の話だ。」
「で、後はこう、両手の親指どうしはあわせて、左手の指の上に右の指を重ね、親指二本と人差し指でまんじゅうの形になるようにして、手のひらはこう上を向けて、膝の上に置く」
「鎌倉の大仏さんと同じ形ですね」
「そうそう」
「あの印はなんて言うんですかね?」
「知るかっ」
「それから、目は半眼に閉じて、後は静かに……」
「あれ、なんで目を開けていたり、全部閉じちゃだめなんですかね?」
「少なくとも、全部閉じちゃ寝ちゃうからだろうなぁ。半眼でも寝そうにはなるが……。自分的には、世界と自分(まぶたの裏)とが半分ずつ見えている。世界も自分もそこに在る、と感じられる状態がいいんじゃないか、と思っているんだが。」
「なるほどねぇ。」
「でだ、後は静かに呼吸をしながら、数を数えるんだ。」
「数を?」
「そう、鼻から息を深く吸ってはひとつ、口から吐いてはひとつ、と一呼吸で二回。で、全部で百八回数える。」
「百八回ってのはあれですね、煩悩の数。なるほど、いろいろと煮詰まっている煩悩を無くしたいってとこですか。」
「そうそう。で、だ……。」
そこでその人は、にやりと笑って、こう言った。
「最近は、気がついたら、百八回どころか、気がつけば無意識に二百回以上数えていたりするんだよ。まさに、無心になっていたってところかね。」
その会話を先ごろ思い出した私は最近、風呂に入る度に、風呂場を暗くして、湯船の中で、その人が言っていた『座禅』を組んでいたりする。
いつの間にか数を数えすぎたりしていると、ちょっと、嬉しい。
ちなみに、湯船の中なのは、腰痛持ちなので部屋で普通にあぐらを組むのがちょっと辛いから。
それと、もしかすると
の影響も、あるかな?